今を遡ること50年、戦後の高度経済成長期の真っただ中に、白瀬鋼管株式会社は産声を上げました。
創業者の白瀬 渉(先代・現会長)は、第二次大戦の最中(さなか)、政府高官であった父の赴任先(当時日本の植民地の大陸)にて生を受け、終戦後に帰還いたしました。
帰国後は、両親の故郷のある鹿児島にて高校卒業までを過ごし、大学進学のため上京することとなります。
戦後間もない当時、大学進学、ましてや九州から東京に出てくるということは非常に珍しく、またそれはそれは困難であった時代のことです。
物もなく皆貧しく、戦後の復興に向けて日本がようやく歩みはじめたなか、苦学の末に大学を卒業したのでした。
卒業ののち、東京の企業に就職した先代は、仕事先でとある社長さんに出会います。
時はちょうど東京オリンピックのころでした。
その方は自分で商売をはじめることをご進言され、軽自動車をくださいました。
そして高度経済成長期という追い風もあり、はじめた会社は順調に成長していきました。
もしこのご縁がなかったならば、今日(こんにち)の白瀬鋼管はなかったことでしょう。
その後も日本におけるプラント用大型免震装置の創設プロジェクトや、医療分野の将来性にいちはやく着目、医療機器メーカー様との連携を深めるなど、着実に業績を伸ばしてゆきます。
しかし順風満帆だった日々に、突然悲劇は訪れました。
当時高校一年生だった一人息子が、生死の境を彷徨うような交通事故に合ったのです。
先代は息子に付き添うため、徐々に業務縮小する決意をしました。
懸命な看病の甲斐もあり、一人息子はなんとか一命を取り留めます。
何回もの大手術、一年あまりの入院の末のことでした。
しかしその息子が大きな後遺症を負ってしまったことで、後継は難しいと感じた先代は、ますます業務を縮小していったのでした。
それから25年、白瀬鋼管は再び業務拡大に向けて始動することとなります。
まったくの他業種に就いていた一人息子、現代表取締役社長 白瀬 耕一が後継者に就任したのです。
現社長は、先代からの顧客様をベースに、インターネットでの広告などの新しい試みを積極的に導入し、新規の取引を次々と拡大していきました。
社長就任からわずか十年弱、まだまだ若輩者だという現社長は、よりいっそうお客様やご協力会社様のご期待に沿えるべく、従業員とともに勇往邁進している毎日です。
そして、お取引いただいているすべての方々の益々のご発展、また弊社従業員の幸せと成長を願ってやまないのでした。
おしまい